「我」があるかどうかは自分だけが知っている
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元旦にステキなプレゼントをいただいた。
ステキなファミリーから頂いた大切なプレゼント。
自分の信じてきた教えを説いた方が、何をもとにそう説かれたのか、自分で読みながら説き直す意味も含めて初めの50章を読んでみる2023年の二日目。
それは自分の信じてきた教えを覆すとかそう言うことではなく、自分が言葉によって、もしくは自分の偏見によって、誤認識しているものがないか復習するようなものだと思っている。
側から見れば色々思われることもあるかも知れないけれど、人が神の下に本然な姿で生きられることこそ人が永遠の幸せを得る道であると考えるから、そこに向かうためには肩書を持つ基準とする誰かを見つけて真偽を問うのではなく、自分で神に問うて行くことしか出来ないと思っている。
それを「我」を捨てられない行動と見る人がいるのならそれは仕方ないことで、でも人にそう思われることを恐れて誰かに基準を置くことは出来ない。自分で神に問うて行くことこそが、「我」を捨て切るための方法だと感じるから、誰が信じてくれなくても私は神の前にそうするしかないと思っている。
ただいつも思うことは、そこに自分の私利私欲を満たそうとする気持ちがごく僅かにでも含まれるのなら、その行動は見直さなければいけないと言うこと。
自分のしている行動が、人を永遠の幸せの道に導きたいと言う思いから来るものなのか、ただ自分が誰かに認められたいと言う一時的にしか続かない欲望を満たそうとする思いから来るものなのか、そう言うことは常に祈りの中で自分自身の心持ちをいつも確認しながら慎重に歩んでいきたいと、そんなことを思っている。
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ひとりの人として生きようという思いに至るまでの日記
「自分がどう生きたらよいのか分からない」「自分がどこにいるのか分からない」「消えてしまいたい」
40歳目前にしても尚、何かを頑張ろうとしても次の瞬間にその気持ちが消えてしまう。その状態を学生の頃からずっと繰り返してきました。どうして気持ちを維持できないんだろう。自分は何が問題なんだろう。自分が生きている価値って何だろう。ずっと抜け出せない渦の中で生きていたように思います。
その抜け出せない心の中のぐるぐるした渦の中から抜け出すきっかけになったのは、Facebookに自分の思いを書き続けたことにありました。こちらのカテゴリーゆっきーのつぶやき日記2022~2023では、私が書き綴った日記を投稿しています。日記を投稿するに至った理由は、★ゆっきーのつぶやき日記を読んでいただくにあたって★をご覧になって頂けたらと思います。
あなたにとって、ちょっとした気晴らしにでもなれたら幸いです。
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