誰かのせいってことはあっても自分が変わるしかない

おもうこと



【スポンサードリンク】


私は生きてくる中で、どうしても許すことのできない人がいました。とは言っても、それがどこの誰なのかは分からず、ただ「許せないことをした人」と言うカテゴリーでそう言うことをする人の特徴をあげては心のどこかで批判し続ける自分がいました。

心の中の壁

その考え方のせいで私は、小学校、中学校、高校、大学、職場と言った人生のステージごとに出会う人々に対して、心の中で常に壁を作っているようになりました。些細なことで躓き、どこか敵対視してしまう自分がいて、人にどうやって接したらよいのかが分からなくて、人見知りの傾向にありました。

よくわからない生きづらさが常に付きまとっていたように思うのですが、今思えばそれらの原因のほとんどが、私自身の人に対する敵対心のようなものによって、自分の殻に閉じこもって私が周囲の人々に心を開けなくなっていたためだったのだろうということを感じます。そこから抜け出せずにいた頃は、その生きづらさを環境のせいにし、他人のせいにし、環境や他人が変わってくれなければ私は苦しみから解放されないのだと、いつも思っていました。

人を変えるために認められようとしていた自分

私は自分が正しく生きれば、きっと環境も他人も認めてくれて変わってくれて、私の生きやすい環境になり、私が共にいて心休まる人々になってくれるのだと思っていました。それで人に認められようと必死になっている自分がいました。そうして、学生時代から社会人になっても尚、そのために頑張ろうとする自分がいました。

だけど、どんなに頑張っても、人に認められる日が来るような気がしないのです。学力や仕事で評価されることはあっても、私にとってそれが重要なことではなく、ただ「正しい人」として認められたいと言うその思いで生きていたのだと思います。今だから分かることは、「正しい人」と言う評価は人にはできないということ。人間には他人を、「人」という基準で評価することなんてできないんだろうなって、そう思うようになりました。それは、自分の心を楽にするための大切な気付きの一つでした。

そしてもう一つ、私が自分の心を楽にするために気付いたことがありました。それは、他人を変えることは出来ないということ。自分に変えられるのは自分だけなんだということに気が付いたのです。

心が楽になると同時にやってきた虚無感

その二つのことの気付きは、私の心を楽にすると同時に、私が今まで生きる上で芯になっていたものを覆すものでした。先ほど書いたように、私は「環境や人を変える」ために「他人に認められよう」として生きてきたからです。どこから間違ってしまったんだろう、自分の生きている意味って何なんだろう、私は何を目的に生きていたんだろう、私は今どこにいるんだろう、世の中に取り残されているんだろうか・・・と、虚無感に襲われもしました。

今までやってきたことが価値のないことなんだったら、ずいぶん長く無駄なことに時間を費やしてきてしまったな、とそんな思いにも駆られ、だったら今から頑張ればいい、頑張るしかないじゃないかと自分に言い聞かせ、それでも無駄なことに多くの労力を費やしてきてしまったということが、何もして来なかったということになり、これから頑張らないといけない課題が重くのしかかる、押し潰されてしまいそうにもなりました。



【スポンサードリンク】


自分の弱さを認めること

弱い自分っているんだと思う。弱い自分はその不安感によって、頑張ろうとする他人からパワーを奪おうとする。助けを求めているとも言える。そして助けようとしてくれる人っている。だけど大事なのは、どんなに助けてもらったとしても、最終的に頑張るのは自分なんだってこと。

目に見えるものには限界があり、目に見えないものは無限。誰かに助けを求めるとき、目に見えるものをもらうことも一時的にはあるかもしれないけれど、それはあくまでも一時的なものであって、無限にもらい続けることは出来ない。もらえなくなったときに、見捨てられたんじゃないかって言う不安感に襲われたりもする。だけど、そうじゃないんだなって。たぶんきっと、本当の優しさは、見えないところでずっと繋がってくれているんだと思う。

見えないから分からないけど、だけど、与え続けられているって信じていれば、それは自分自身のパワーになって頑張れる。

頑張れない理由が誰かのせいってこともあるかも知れない。いろいろな過去の出来事を思い出すことだってある。だけど、誰かのせいにしている限り、前には進めないんだなって思う。頑張れないのは自分が弱っているからなんだって、自分の弱さを認めるようにしたら、パワーを与え続けてくれるものを素直に信じてみたいなって思うようになった。

頑張り続けられる自分であるために

頑張れるように気付きを与えてくれる人っている。そんなとき、どこかで誰かが祈ってくれているのかもって、思ったりもする。

誰かの与えてくれた気付きによって、頑張り続けられる自分になれるなら、それはきっと気付きを与えてくれた誰かが、永遠に注がれる目に見えない何かを信じているってことなのかなって思う。そういう目に見えない大切なものに気付けるようにしてくれるのは、きっと祈りなんだろうなって、そんなふうに思う。

頑張れない自分を放置して、「神様~!神様~!」って、ただただ拝むように祈るのは正直好きじゃない。だけど自分が頑張れるように何かを信じて祈ることはきっと、頑張れる自分に繋がるのかもしれないって思う。ただただ拝むように祈る姿も、自分が頑張れるように祈る姿も、側から見ると同じく見えるかもしれない。その人がどんな気持ちで、どこに向かって祈っているかなんて、本当のところは他人にはわからないんだろうなって思う。

他人がどうであるかなんて他人である自分にはわからないことだし、その他人に対して「こうあるべきだ」、「あああるべきだ」って言うことは、他人にとってはただ不満を呟いているようにしか聞こえないのだろうし、そういうところに時間を費やすのは無意味なことなのかもしれないって思うようになって、自分と自分の家族と隣人とを幸せにしていきたいのなら、自分が頑張れる自分に変わるしかないんだって、自分に出来ることは自分を変えることなんだって、そう思う。



【スポンサードリンク】


おもうこと

Posted by yukky